ヤーパフワ遺跡のルーツ
こんにちは。
個人的に遺跡、特に仏教の遺跡が好きなので東南アジアのものはほとんどまわりましたが、アヌラダプラに向かう途中にあるヤーパフワ遺跡を見てきました。
13世紀に短期間王都が置かれたところですが、ポロンナルワ時代のものよりも重厚な石造りとなっています。レリーフなどにシンハラ式の面影を残していますが、若干違和感を感じます。これをインドやカンボジアの影響を受けたと地球の歩き方には書いてありました。インドの影響を受けるのはセイロン島として当然ですが、カンボジアの影響を受けたというのは本当かなあと思ってしまいます。
なぜかというと、仏教史を見てみますと、当時シンハラ王朝がここに遷都した理由はインドの侵攻です。11世紀にビジャヤバーフ1世が仏教を復活させ、その後パラクラマバーフ1世は強大な軍事国にします。ところがそのすぐあとにインドが再度侵攻し大きな被害を受けます。
13世紀と言いますと、ビルマではバガン王朝がモンゴル帝国の侵略を受け滅亡、上座部僧の多くは四散してしまいます。東ではランナー朝が興り、その後スコータイ朝も仏教国になりますので、バガンの僧侶は東へと逃げた可能性が高いです。また同時にカンボジア・クメール王朝にも仏教が浸透していきます。
さて、話を戻しますと、東南アジアの仏教の状況はこんな感じです。スリランカでもヒンドゥーの武力が南下したわけですので、同門の東南アジアに逃げたお坊さんも多かったに違いありません。それまでポロンナルワと同時期最大の仏教都市だったバガンが滅んだのですから、お坊さんもビルマに上陸しそれを聞き、東のタイへのがれたのかもしれません。結果スコータイやランナーが勃興していったわけです。
つまり、スリランカ仏教が安泰だったわけではなく、11世紀ほどではなかったでしょうが、他国の攻撃を受け遷都した時期です。そんなときに仏教先進国であるシンハラが、カンボジアから文化を逆輸入するとはとても思えません。
この辺もカンボジア由来だとされているのでしょうか
こちらはバンテアイスレイの美しい彫刻です。確かに似ている気がします。ただ。ヤーパフワにある上に乗っている獅子はカンボジアではほとんど見たことがありません。
これはインドネシア・ジョグジャカルタの王宮にあるあっかんべーです。ジョグジャにはこのアッカンベー文化が強く根付いています。
プランバナン寺院にもその痕跡があります。
この魑魅魍魎なやつ(笑)も不気味にあっかんべーしています。
ミャンマーの地方都市チャウセーで、古いパゴダが崩れ中から11世紀の寺院がそっくりそのまま出てきました。タモテ・シンピン・シュエグジーと言いますが、その美しい彫刻にも同系と思われるシンボルが描かれています。
何が言いたいかといいますと、仏教や仏教文化の伝播は、柳田国男が蝸牛考で言っているのと同じで、インドを中心に周辺諸国に波紋をえがくように広がっていったわけです。だから、遠く離れたインドネシアもカンボジアもミャンマーも同じようなものがあるわけですね。状況としてカンボジアに似たようなものがあっても、当然であって、それがカンボジアから伝わったということにはならないと思います。
だいぶ話がそれましたが、ヤーパフワ遺跡の入口は長い急な階段になっており、これを見るだけで十分価値があります。
私はシーギリヤに登っただけで冷や汗が止まらないほどの高所恐怖症です(笑)ので、ここも頂上まで行くのは断念しました。。スリランカ観光は高いところが苦手な人にとっては難所があるところですね(笑)。
あ、ところで今回はじめて読んで頂いたかたはお気づきかと思いますが、このブログ、かなりのマニアック路線です(笑)。興味のない方は本当すみません…。興味のある方はぜひミャンマーブログの方もご一読ください。こういう話がいっぱいありますので(笑)。